企業活動の中で起きる人権侵害リスクを早期に見つけ、対処する「ビジネスと人権」の取り組みで重要となる「救済」のメカニズム。従業員が安心感とやりがいを持って働ける環境づくりのベースとなるこの仕組みが適切に機能しなければ、企業の持続可能性は揺らぐことになります。第5回では旧ジャニーズ事務所(現SMILE―UP.、 スマイルアップ)を舞台とした性加害問題を拡大させた背景として指摘されるガバナンスの不備と外部の監視・けん制機能の欠如を取り上げました。
第6回は続編として、兵庫県の斎藤元彦知事が内部告発された問題などで注目された「公益通報者保護制度」を巡る動向や、フジテレビを巡る問題も踏まえながら、企業にとって人権への対応が重大な経営課題になっている実態をリポートします。(時事通信ビジネスと人権取材班)
【第5回】人権侵害、試される「救済」メカニズム◇旧ジャニーズ問題から考える
公益通報者保護法、見直しへ
中古車販売大手ビッグモーターの保険金不正請求問題やダイハツ工業の認証不正などで機能不全が露呈した内部通報制度の改善に向けて政府が動きだしている。昨年5月、消費者庁の有識者会議は公益通報者保護法の見直しに向けて議論を開始した。
同法は、企業や行政機関の不正行為について、組織内部や行政・報道機関といった外部に通報した労働者らの報復的な解雇などを禁じているが、有識者会議が年末にまとめた報告書では、公益通報を理由とした事業者による解雇や懲戒処分に刑事罰を課すことなどを提言。政府は今月から始まった通常国会に同法の改正案を提出する方針だ。
一方、報告書では、公益通報者に対し企業が不利益な配置転換や嫌がらせを行った場合の罰則導入の提言は見送られるなど、課題が指摘されている。有識者会議では、報復配転や嫌がらせについて「不利益な取り扱いは解雇や懲戒のような明確な形ばかりではない」として罰則対象とすべきだとの意見も出たが、事業者の裁量で行われる配転を罰則対象とすれば「企業の人事政策が過度に制約される」といった意見もあり、罰則対象とすることは見送られた。
通報者保護、「人権」の視点で
だが、実際には報復配転という形で内部通報者への不利益行為は起きている。内部通報を理由とした不当な配転命令の取り消しなどを求めて精密機器大手オリンパスを提訴し、最高裁で勝訴が確定した同社OBで、アムール法律事務所の講師を務めている浜田正晴さんに見解を聞いた。
浜田さんはオリンパス在籍中、上司が取引先から技術者を相次ぎ引き抜いた行為をコンプライアンス違反の恐れがあるとして社内の内部通報制度を利用して会社に知らせた。しかし、その上司に通報の事実を漏えいされた上、急きょ新設された新規事業創生探索という専属ポストに配置転換された。新ポストでは、社内外の接触を断たれたほか、達成困難な目標を設定され、通常ではあり得ない低い人事評価を受けた。
浜田さんは08年、配転命令の無効確認などを求めて会社を提訴。一審で敗訴したが、二審で逆転勝訴し、12年に最高裁で勝訴判決が確定した。それでも会社による制裁人事は続き、再び訴訟を提起。足かけ8年に及ぶ裁判の末、16年に勝訴的和解で決着した。
「人権に関する問題だということを軸に置き議論をすべきだ」。浜田さんは自身の経験を踏まえ、不当な配転命令など内部通報者への不利益行為についてこう語る。実際、浜田さんのケースで東京弁護士会は、会社側の人権侵害を認定し最も強い是正警告を出した。
問われるトップの覚悟
浜田さんは、現行の公益通報者保護法は事実上、「組織に身を置いたまま、組織相手に過酷な法廷闘争を行うことが前提の法律となっている」と、長期にわたる内部通報裁判を闘い抜くことの負担の大きさを話す。
その上で、企業が内部通報を理由に不当な配転命令を行い、裁判所で人権侵害行為が認定されて敗訴した場合は、「即上場廃止」といった厳罰化が必要だと指摘。経営トップに「人権尊重の重み」を認識させ、抑止効果を高めることが重要としたほか、裁判に至る前に問題を解決するためには、「企業風土を良くして信頼できる労使関係を作るとしか言いようがない」。
経営トップが毎月、内部通報者の人権を守るというメッセージを発信していくことも必要だと訴えた。
重層的なチェック機能
ただ、企業活動に伴う人権侵害は内部通報制度だけで防ぐことはできない。旧ジャニーズ事務所で起きたのは、組織の絶対的な権力者による同性・未成年への性加害だ。ジャニーズの再発防止チームがまとめた調査報告書は、事件の特徴から「被害者は、親を含め第三者に相談・告発することが心理的にも非常に困難であったと推察される」と指摘。さらに、複数の被害者は親にも相談できないまま、「心にふたをした」と証言した。
国連ビジネスと人権作業部会が昨年5月に公表した対日調査報告書では、被害者が裁判によらず、国や企業の人権侵害行為に対して幅広く救済を申し立てられる独立した人権機関を「遅滞なく」設置するよう勧告した。同部会の専門委員、ピチャモン・イェオファントンさんは、この機関について、もし日本にも設置されていれば、旧ジャニーズ事務所の性加害問題も、「深刻になる前に対処できた可能性があった」と語った。
弁護士や有識者、NGOなどで構成され、人権侵害にワンストップで対応できる独立国内人権機関は、被害者の救済に重要な役割を果たすとされ、現在、世界100カ国以上で設けられているが、日本にはまだ存在しない。
フジで浮き彫り、人権リスク
取引先によるけん制・監視機能はどうか。旧ジャニーズ事務所の性加害問題を受けて、テレビ局などは相次ぎ、「人権方針」を策定し、人権DDの実施などを表明した。だが、これは、「ビジネスと人権」上の対応の第一歩を踏み出したに過ぎない。方針を策定するだけでなく、自社や取引先を含めた事業活動に人権侵害リスクがないかをチェックする不断の取り組みが求められるが、この点で信頼を失い、経営を揺るがす事態を招いたのが現在のフジテレビだ。
昨年12月、週刊文春はタレントの中居正広氏(その後芸能活動の引退を表明)による女性とのトラブルに、フジテレビの社員が関与したと報道。その後、23年6月に起きたこのトラブルについて経営トップが発生直後に把握しながら中居氏への調査を行わず、番組に起用し続けていたことが判明。
さらに、当初は独立性があいまいな調査委員会で真相究明を進めようとするなど同社の対応に批判が集中。トヨタ自動車や日本生命保険、など大手企業で、フジへのCM出稿を差し止める動きが広がった。グローバルに事業展開するこれらの企業にも自社の「人権方針」があり、それに従えば、人権侵害のリスクを払拭できない企業との取引は控えざるを得ない。フジの経営への打撃は避けられないだろう。
フジの問題を受け、日本テレビやTBSも会食などの際に不適切な性的接触がなかったかどうか調査を始めた。国連作業部会の対日調査報告書では、メデイア・エンターテインメント業界の性的暴力やハラスメント防止に向けた取り組みについて、「不十分なままだ」と断じている。こうした状況にスポンサー企業の厳しい目が向けられ始めている。
米裁判が問う日本の常識
昨年12月、旧ジャニーズ事務所の元所属タレント2人は、それぞれ1997年と2002年に滞在先の米ネバダ州ラスベガスのホテルでジャニー氏から性的暴行を受けたとして、スマイルアップや旧ジャニーズ事務所の経営幹部らを相手取り、同州の裁判所に計3億ドル(約470億円)の賠償を求める訴訟を提起した。同州では未成年に対する性的虐待に時効が適用されないことも訴訟の背景にあるとされる。
賠償請求の対象には性加害の舞台とされるミラージュホテルを運営するMGMリゾーツ・インターナショナルも含まれた。訴状では、国内外のさまざまな報道から、ホテル側は性加害の恐れを「合理的に予見可能だったはずだ」と指摘。 被害者も滞在する複数の部屋をジャニー氏に提供したのはホテル側の過失や注意義務違反だと主張し、性加害への加担行為の責任を広範に問う姿勢を明確にした。
スマイルアップは 「米国の裁判所には管轄は認められないものと考えている。米国の弁護士にも相談しながら、今後の対応を進めていく」とのコメントをホームページに掲載。裁判を通じて性加害への加担行為の責任範囲、米国に比べて低いとされる賠償金の水準、未成年者への性犯罪の時効妥当性など日本の制度の在り方にも光が当たる可能性がある。
重大局面の日本社会
「問題は風化の一途をたどっているが、未来の子どもたちが被害に遭わないために、声を上げ続けていかなければいけない」。旧ジャニーズ事務所がジャニー氏による性加害を認めてから約1年が経過した昨年10月、被害当事者は、日本記者クラブ(東京・千代田区)で記者会見し、こう強調した。
日本政府は今年、国連の指導原則を踏まえて20年に策定した「ビジネスと人権に関する行動計画」を改定する予定。これまでに噴出したさまざまな問題を踏まえ、官民、そして日本社会が人権侵害を防ぐための仕組みをどう整えていくのか、将来への重要な局面にさしかかっている。